松山市堀江町は人口約11,000人、山と海に囲まれた風光明媚な場所です。
また住民の人柄はよく大変住みやすい土地となっています。
このことから、古くから守られてきた事柄や新しく始めている事などを紹介していきたいと思います。
Horie-cho , Matsuyama City is a scenic place surrounded by mountains
and the sea with a population of about 11,000.
堀江吟詠会 井上先生の暑中見舞いはがきの漢詩をご紹介します。
夏日偶感
池亭柳岸雨如煙
水面蛙声意凄然
三伏求涼臨緑陰
麦秋麦穂枕書眠
池亭柳岸雨煙の如し
水面の蛙声意凄然たり
三伏涼を求め緑陰に臨む
麦秋麦穂書を枕に眠る
令和三年 盛夏 井上詠月
上記起句の池亭とは、上の写真右側の池に突き出した休息の場を言うようです。
この漢詩に出会うまでは、「池に突き出した、東屋」と思っておりました
本当はまだ十分理解できていませんが、夏が終わってしまうので
タイミングを逸してはと思い紹介しました。
写真は皆さまご存知の新池と花見山城です。
友人が石鎚山に登り
写真を送ってくださいました。
天狗岳1,982mです。
常に矍鑠としておられて
素晴らし前向きな考えを
お持ちです。
ところで、石鎚山は漢詩にもなっており
全国の吟詠家が
吟じておられます。
石鎚山 海量法師
遠游千里天涯を度る
南予の山川行路斜めなり
独り石鎚の山色を起こす有り
暮春三月雪花の如し
堀江吟詠会の井上詠月先生は詩吟のみならず漢詩にも
造詣が深く、カルチャーセンター等たくさんの
生徒さんのご指導に当たられています。
今回はその中で発表済みで
受賞された漢詩をご紹介いたします。
平成14年 八幡浜市長賞
游萩森城址
獨登城郭百花紅
草木依依門外風
緬想英雄千古恨
鳥聲空去白雲中
(七言絶句 上平声一東韻)
独り城郭に登れば百花紅なり
草木依依たり門外の風
緬かに想ふ英雄千古の恨み
鳥声空しく去る白雲の中
相原泥舟先生は楓社漢詩会を主宰され漢詩実作の指導をされています。
又値三朝欣尚央
致思防疫不離房
従前生活尚遼遠
未慣現今新日常
又三朝にあうも よろこび尚なかばなり
思いを防疫に致して いえを離れず
従前の生活 尚りょうえんならん
未だ慣れず 現今の新日常に
また新年 でも喜びは半分ばかり
感染の予防に努めて 家を出ず
以前の生活 まだまだ遠そう
「新しい日常」とやら まだ慣れず
東大栗町にある天台宗のお寺に、堀江小学校の子供たちが作った灯篭約200個を
民俗行事部のメンバーが並べます。
一晩だけですが幻想的な雰囲気が味わえます。
あくまで地元だけの行事です。
神輿と伊勢音頭
松山地方祭においては、神輿の鉢合わせがつとに有名で勇壮な姿を誇っています。
さて、当地堀江では正八幡神社から四体の神輿が出ますがいずれも伊勢音頭を唄いながら練り歩きます。
(松山祭りにも音頭を唄う地域がある。松山市北部の潮見、和気、堀江、久枝など旧和気郡地区は「伊勢音頭で神輿をかく、中島、興居島あたりもそうである」)
なぜこの地だけ伊勢音頭を唄うのか
また、いつ頃、どこから伊勢音頭が伝わってきたのか強い興味が湧いてきます。
このことについて、もっと深く調べて
愛媛県の神社の伊勢音頭分布図を作りたいと考えております。
()書部分の出典
松山市役所
松山の民俗
堀江公民館では民俗行事部の指導者のもと堀江小学校の子供たちが練習を重ねています。伊予万歳は今から350年前松山初代藩主久松定行が正月の縁起祝いとして、上方の万歳太夫を招いて藩士たちを慰労したことに始まり、しだいに藩士に、間もなく民間に流行しついに民衆娯楽となったものである。
出典:黒河健一著
生きている民俗探訪愛媛
花見山城
親水公園のそばにあるお椀をふせたような形の山城跡です。春には桜のある美しい風景を見せてくれます。
矢の根は
深く埋もれて
夏草繁き堀の跡
古城に一人
佇めば
比良も伊吹も
夢のごと
琵琶湖周航の一節です、たぶんこの地を守った者は、矢をつがえて放つ訓練もしていたことでしょう。
矢の根とは、矢の先端に付ける鏃(矢じり)のこと
古墳と防災(古墳が町民の命を救う)
塚本古墳
堀江町では北谷古墳が著名で皆の知るところです。
同じく松山市北部には塚本古墳がありました。またこれ以外にも古墳が存在しています。
(ただ塚本古墳については、かなり以前にゴルフのアプローチ練習場として開発されたいきさつがあり、主要な部分が存在しない状態のようです。
「念のため、開発は申請許可を受けた合法的なものです。」
一部残っているものは、市教委、埋蔵文化センターの手で調査済みです。)
埋蔵文化センターの仕事は素晴らしいですね、古い時代の年代測定など知りたいことがたくさんありますよね。
私が考えるのは、このように松山市北部にはこのような古墳群が存在するため、この一帯を堀江町としての史跡公園にできないものかということです。
防災避難場所としての公園
堀江町は海に面していて、南海トラフ巨大地震が発生すれば、1時間で4ⅿの津波が襲来し甚大な被害が予想されます。
11,000人の人命を守るために1次避難場所として整備すべきと考えます。
また、ヘリポートや津波監視施設などの必要な設備は付随して発生してくるでしょう。
古い文化財を守り、津波被害を抑え込む一石二鳥の対応策が必要です。
出典()部分:市教委、松山市埋蔵文化財保護センター
蓄光パネルと防災
上の写真はバイパスへ上がる道路の写真ですが一番上は標高5.9mでこの地に予想されている津波が4.0mです。
最高遡上高は不明ですが、単純な標高の比較では安全と考えられます。
ただ、津波は想定にとらわれるなというのが鉄則と東京大学の片田教授が説いておられます。
従って、避難場所標高は十分な高さを確保する必要があることはいうまでもありません。
古墳に続くバイバスへ上がる道路の右面に一定間隔で
蓄光パネルを貼り
非常時の住民避難の目印にしたいと考えています。
大地震の発生時には通常電源は喪失が予想されますので
避難時に暗闇でも目印になる
蓄光パネルによって
住民の避難をスムーズにしたいと考えています。
松山市勝岡町にある
愛媛県消防学校の展示室前で
松口月城の消防精神の漢詩に出会いました。
全国で使用されているようです。
消防精神 松口月城
天裂地崩不足駭
猛火洪水何逡巡
吾等使命在此際
任侠一片当挺身
勇敢沈着亦機敏
発揮消防大精神
天地裂け地崩るともおどろくに足らず
猛火洪水なんぞ逡巡せん
吾等の使命このときに在り
にんきょう一片まさに身を挺すべし
勇敢沈着また機敏
発揮せん消防大精神
上記はある果物のお菓子屋さんの
包装紙です。初めはあまり意識していなかったので少し折がついたまま撮影していましたのでわかりにくくなっています。
内容は下記のとおりです。
登鸛鵲楼 王之渙
白日依山尽
黄河入海流
欲窮千里目
更上一層楼
かんじゃくろうに登る
白日山によって尽き
黄河海に入って流る
千里の目を窮めんと欲し
更に登る一層の楼
非常に雄大な詩であることからこの漢詩を採用されているとのことでした。
多分、店主はその味を窮めんとしてなお一層の高い場所を目指しておられるのであると感じました。
堀江公民館では民俗行事部の堀江小学校の子供たちが中心となり、親子で七草粥を作って楽しみます。
民俗行事部の担当者が七草を板に貼り
名前を書いて、みんなで種類や形を見ながら一年の無病息災を祈って
おいしくいただきます。
東大栗町に生まれた上松栄吾が江戸末期、明治、大正にかけて米作の改良に取り組み、米質優良として松山地域で広くつくられました。
上松栄吾は15歳のころから
実入りよく、味の良い米を作ろうと熱心に稲作改良に取り組みました。
堀江公民館では、この栄吾米を毎年植えて秋には収穫の作業を行っておられます。
上に記載した七草粥も栄吾米で作られていることでしょう。
詩吟が盛んな堀江町
昔から詩吟を詠ずることが好きな同好の志が多く、この地から,吟道翠風流石丸翠風先生他複数の詩吟の流派も誕生しています。
この伝統は堀江小学校の校長であった三浦謙次郎先生が日頃から「文天祥」の漢詩を詠じていたことから培われてきたものと言われています。
写真は三浦先生顕彰の銅像の台に刻まれているものです。
三浦謙次郎先生像の裏面の漢詩
相逢相契語人生
朴学童心無限情
椿戯瓢歌猶在目
神交礙隔幽明
相逢い相契びて人生を語る
朴学童心無限の情
椿戯瓢歌猶目に在り
神交礙げず幽明を隔つ
憶亡友三浦謙校長
老学正篤
安岡正篤先生の詩作及び書が刻まれています。
出典:ふるさとほりえ発見の旅
松山市堀江公民館
中江藤樹と漢詩
(中江藤樹は当初堀江に近い、松山市北条柳原に居住しました。
祖父吉長が風早郡の代官に登用され
任地柳原の代官屋敷に住むこととなりました。
この時期藤樹は初めて「大学」を読み
「天子より庶人に至るまで、すべては身を修めることが根本となる」とあるのに発奮、学問の道を志した。
柳原は、藤樹立志の地である。)
諸生と月を見る
清風満座忘炎暑
明月當天絶世塵
同志偶然乗興処
不知不識帝堯民
清風座に満ちて炎暑を忘る
名月天にあたって世塵を忘る
同志偶然興に乗ずるところ
知らず知らずていぎょうの民
中江藤樹が大洲を離れ近江に帰ってからの作品です。
中江藤樹の写真はフリー画像から引用しました。
()書部分の出典
出典:郷土史事典 愛媛県
愛媛大学名誉教授 田中歳雄 監修
小原六六庵は松山の書道
家、漢詩家、吟詠家として知られており六六庵吟詠会という全国に通用する著名な団体を主宰され数万の漢詩を創作されました。
そのあとを伊藤竹外先生が継承されましたが
同じく数万の漢詩を創作されています。
今は伊藤先生の奥様が継承されていますが三代にわたっての人格者です。
これほどの歴史ある六六庵吟詠会ですから、伊藤竹外先生が近代吟詩として作られた節調は絶対に崩すべきでなく
次代の人々に伝えていくことが必要です。
節調の変更が必要な場面があったとしても現宗家の承認が必要です。
これほどの会であれば、節調の検討会があって提案により検討し最終的に宗家の判断にゆだねるべきです。
決して一部の会員が歴史ある節調を勝手に変更したり、手を加えるなどをして伝統を崩すことは厳につつしまなければなりません。
たくさん作られた漢詩の中でも日々吟詠家に吟じられている漢詩 松山城 を下記にしるします。
松山城
割拠海南称七雄
当年偉構一眸中
三層楼閣聳雲際
道後平原夕日紅
海南に割拠して七雄を称う
当年の遺構一眸の中
三層の楼閣雲際に聳え
道後平原夕日紅なり
( 松山城の写真は毎日
登っている友人にご提供頂きました。)
正岡子規11歳の時の作です
子規を聞く(ホトトギスを聞く) 正岡子規
一声弧月下
啼血不堪聞
半夜空聳枕
古郷萬里雲
一声弧月の下
血に啼いて聞くに堪えず
半夜空しく枕を聳つ
古郷万里の雲
ホトトギスの啼き声が一声、もの悲しく懸る一輪の月の下に響き渡る。
その痛切な啼き声は聞くに堪えない。
孤独な旅人は、啼き声に夜半目を覚まして一人枕を引き寄せ
遥か離れた故郷に思いを致すのである。
出典:吟剣詩舞道漢詩集
(財)日本吟剣詩舞振興会